雑記

指導・育成・教育が上手く行かない原因は全て支援者側の問題

 こんにちは。作業療法士の中野です。

 今、ひきこもり家族支援の為のCRAFTについての本を読んでいた。

 よくできた内容でひきこもり児・者の支援に当たっている人には絶対読んで欲しい。

 そして内容を見ていると、ボクが今学んでいる『コモンセンスペアレンティング』と共通する部分が多々出てくる。

 要するに、子育てにしても、引きこもり支援にしても、その他『支援』と名のつくものには共通の問題と方法があることが分かってくる。

 今回は、その『支援』の問題を明らかにして、それらを解決する方法についてシェアしたいと思う。

支援にはらんだ問題

 支援が上手くいかない理由の一番大きな原因は『支援者が被支援者の上に立っている』という思い込み・構図ではないかと思う。

 優越感・有能感、なんと表現すべきかは場合によって違うと思うけど、例えば引きこもりだとするならば、引きこもっている子どもに対して支援する親という関係性がある。しかし、親は自然と我が子よりも有能であると思っている。

 そういう思いが関係性の構築を阻害しているケースが多いのではないかだろうか。

 これは先生と生徒、上司と部下、理学・作業療法士と患者みたいない関係性において発生している。

 要するに支援者は、意識してかせずかは時と場合によって違うけれども、いつのまにか非支援者を下に見ているという節があるのだ。

支援の基礎は受容と共感から

 何故この人は、こういう行動をするのか?何故この人は、こういう状態に陥っているのだろうか?

 それらは支援者−非支援者という構図の中では見つけにくい。

 そして、こういう構図は非支援者の為に!という強い想いを持っている人ほど陥りやすいように感じている。

 被支援者の為にという強い想いは、その反動で自分を支援者とより強く定義付けることを意味している。自分は支援者だから、被支援者の為に何かをしなければ…という想いが生まれるのは当然だろう。

 だが、先程も書いたようにこういう想いが、支援者−非支援者という上下関係の構図を生み出す。

 そして、その構図は間違いなく支援を阻害することになる。

 支援者にとって必要なのは『受容と共感』だ。如何に非支援者の事を我が事だと捉えるか?にかかっている。

 受容と共感というとテクニカルな感じがする。もちろん、テクニカルな受容と共感から入り、本当の受容と共感にたどり着くことはあるのだが、本質はテクニカルなものではない。

 受容と共感ができている状態というのは、自分を滅している状態(※滅私と言われる。)がなければ成り立たない。

 滅私とは私利私欲を無くすという意味で解釈されるが、多くの場合それは非常に困難だろう。私利私欲をなくして、資本主義社会で生き抜くことは困難だからだ。

 だから、受容と共感というテクニカルな事が推奨されるのだと思う。

 人は誰しも我が事の為に頑張れる。自分が豊かになるために、自分が幸せになるために。

 いや、自分は違う。他者に対してはそうかもしれないが、自分は家族が豊かになるために頑張っているし、家族が幸せになるために頑張っているんだと主張する人もいるかもしれない。

 当然そういう人もいるかもしれないが、多くの場合家族にとっての幸せを家族目線ではなく、自分というフィルターを通して見ている。つまり、それはやはり家族にとっての豊かさや幸せではなく、家族の中の自分の豊かさや幸せだったりするのだ。

 そして、そこにはやはり家族と家族を守る自分という、どことなく上下関係が構築されてしまう。

 家族にもそうなるのだから、やはり他社に対してはもっとそうなるだろう。

滅私し、他者理解するのは無理。だから、自分の幅を広げよう!その為に…

 とは言え、ボク達は一般人であり、修行僧ではない。

 滅私などそうそう獲得できるものではない。だから、支援が上手くいかない。

 じゃあ、どうすれば良いか?それは自分というものの枠を広げれば良い。自分という狭いフィルターを取っ払い出来るだけ目の粗いフィルターを作るのだ。

 人は自分のためには親身になれるのだから、自分という枠組みを広げることにより、支援がうまくいきやすくなる。

 まずは家族を、そして、その枠をどんどん広げる修行を積むことで、他者のための支援が可能になる礎となるだろう。

 では、どうすれば良いか。

 自分に余裕を持つことだ。余裕のない心で自分の枠を広げることはできない。

 自分に余裕を持つためには、多すぎない適度な量の食事、適度な有酸素運動、充分な睡眠、アルコールの摂取は控え、瞑想やヨガで心身を整える必要があるかもしれない。

 また、様々な経験をすることで、どんな状況でも乗り切れるだけの自信を得ることができるかもしれない。また、自分でできる経験には限りがあるわけだから、読書や映画を見る事も良いだろう。そのシーンを一つ一つ自身の体験に置き換えることで、自分の蓄えとなる。

おわりに

 自身の生活習慣を見直し、自身の知見を深めることこそ余裕を持つことに繋がるとボクは考えている。

 そして、その余裕が自分の枠を広げるのではないかとボクは考えている。

 支援は如何にして相手に貢献できるか?が重要である。貢献とは自分の為にするものではないし、自分の視野で行うものではない。

 『自分にされて嫌なことは相手にするな』という教訓があるが、それは間違っている。自分がされて嫌なことでも、相手は喜ぶかもしれない。でも、ボク達は相手の喜ぶ事、嫌がる事を本当の意味で知ることはできないから、『自分にされて嫌なことは相手にするな』という教訓になるのだろう。

 自分という枠は簡単に広げられるものではない。自分の枠を広げるには、それも有り、あれも有り、そんな事もあるよね、そんな考え方もあるよねという柔軟な姿勢が重要だと考えられるが、その為には余裕が必要だ。

 人は余裕がなければ何をしだすかわからない。視野は一気に狭くなり、極端な話だと凶悪犯罪というのはそういう状況の中で生まれるのかもしれない。

 反対に人は余裕があれば、視野は広がる。色んな事を可能にする。他者貢献というのも、余裕がある中で可能になる。質の高い支援というのはこういう中で生まれてくるものだろうと思う。

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